発見年月日 |
発見者 |
発見場所 |
発見当時の様子と消失の原因 |
明治38年
9月10日 |
高野貞助 |
城沼北岸
−小渠中 |
- 水面一帯に豊富に産していた。城沼では、4ヶ所知られていたが、昭和9年2月現在1ヶ所となる。
- 泥水と共にかき上げられたことと、地域が狭かったため、採集しつくされてしまった。
- 汚水流入水質悪化したことにもよる。
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明治38年9月10日より一両日を経て |
高野貞助 |
つつじヶ岡北端の瓢箪池 |
- 全池面豊富に産していた。乱獲にあった後、明治45年3月、つつじヶ岡公園年々発展のため、遊覧団体多数来園することになり、集合地設置の必要上埋立ててしまった。このため絶滅。
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明治38年9月10日高野氏発見後学校に持ち帰り生徒に観察させた日より両三日を経て |
福井勝二
(邑楽分校生徒)
発見後高野氏に報告 |
近藤沼 |
- 沼の北岸水田の間を東西に走る幅一間位の小渠中に多く浮遊していた。
- 明治43年の大洪水で消失。またこの洪水により水質が悪化したことにもよる。
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高沢誠三
(邑楽分校一年生)
小島茂三郎
(邑楽分校三年生)
発見後高野氏に報告
高野氏近藤沼、多々良沼のムジナモ確認 |
多々良沼 |
- 弁天の南西(俗称天沼) ムジナモ産地として指定水域及び赤土手の反対側(中野鶉新田側)に豊富に産していた。
- 当時は約30町歩にわたり産していたことを高野氏は述べている。
- 藤川用水より流入する汚水及び足尾鉱毒、乱獲、干拓による水位の変化等が消失の主な原因。
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明治38年 |
高野貞助 |
中野沼 |
- 館林町より太田に至る県道を字雷といえる所より左折し、中野村鶉新田に至る道の左側に産していた。
- 冬土の中にいる魚をとるため、ムジナモの冬芽がのろといっしょにかき上げられ消失してしまった。
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明治38年 |
高野貞助 |
つつじヶ岡公園東の古城 |
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不明 |
高野貞助 |
板倉雷電神社に接する内沼 |
- この沼では、関本平八氏(宇都宮在住植物研究家も採集している。
- 農家が藻を肥料とするのでかき上げた時、いっしょにかき上げられ消失してしまった。
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昭和7年 |
斎藤常夫氏指示
東京在住、食虫植物研究会々員 |
茂林寺南西の小溝 |
- 斎藤氏は茂林寺南西の小溝でムジナモを確認していることを筆者に指示された。
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