3 邑楽町にあったムジナモの推移 
 大正八年に多々良沼に豊富に産していたムジナモは、その後一〇年たらずで減少してしまった。これは足尾銅山よりの悪水が、大雨にて渡良瀬川の濁流となる時に、藤川用水より流入することが原因であると、またこのため藤川用水の水路ならびにその遊水池内のムジナモは滅亡してしまったと高野氏は述べている。そして昭和一一年現在、多々良方面で生存しているムジナモは藤川用水と全く無関係な中野沼と、堤防外で藤川用水と連絡を有しない小渠内のみであるが、中野沼は近き将来において、干拓して水田にする計画があると聞いているが、これが実現してしまえばわが郷土の誇りとするムジナモは、殆んど滅亡してしまうので、藤川用水の影響を受けない範囲内において保護地を選び、保護池を設け、ムジナモを保護する方法を講じなければならない。この場所は、中野沼とわたしの数年前に発見しておいた所の二ヶ所がある。わたしの新たに発見した場所は絶滅を恐れて秘密にしてあるが、ここは足尾銅山より流出する鉱毒の心配もなく、また各種の工場より排出する汚水の流入の心配もない。ただ場所が狭いのが残念である。
 けれどもわが郷土におけるムジナモの分布上から見れば、非常に大切な所であるので、この際役場当局の手をわずらわして天然記念物指定の申請をしてはどうかと思っている。もし文部省で多々良沼を産地として指定しているから、二ヶ所の指定はできないという場合は、やむをえないからさらに県へ手続きをして、県の指定地として永遠に伝えたい。
 中野沼は面積も広く、藤川用水との関係もなく、また当分各工場より流出する汚水の流入する心配もないから、ムジナモ保護地としては最も好適地である。しかし、村民は、すでに水田とする計画を立てているとのことであるから、全部を保護地としたならば、非常にめいわくするので沼の一部一反歩なり二反歩なり区切って、そこを永久の保護地としてそこにムジナモを集めて保護するようになれば、村民へのめいわくも比較的少なくして、その一面保護の目的が達成できると思うと、このように高野氏は、昭和一一年一二月から翌年の一月にかけての東毛新聞誌上に、上下の二回に分けて「亡び行く我が郷土の特殊植物」と題して述べている。
 このことから、高野氏が、いかに中野沼のムジナモの保護に力を入れていたかがわかるのである。
 中野のムジナモ視察に調査員来る・・・・・・中野村大字鶉新田の用水溝沼澤地に自生をはじめたムジナモについて、県史蹟名勝天然記念物調査員中曾根都太郎氏は、実地調査の結果、新たに中野村のもムジナモ自生地として申請することになったと昭和七年一一月一日発行の上毛及上毛人一一月号六七頁に発表されている。
 これは高野氏が、四年後に東毛新聞(前述)に述べた新たな発見地と関係あるのかどうかは明らかではないが、鶉新田の用水溝沼澤地とは、赤土手の西側(鶉新田)のムジナモ産地を指していたものと思われる。
 それではこれまでに邑楽町に産していたムジナモの分布とその推移について述べる。
 中野沼のムジナモ分布・・・・・・中野沼で最初にムジナモを発見したのは、高野氏を多々良沼へ案内した小島、高澤両氏か、それとも、多々良沼へ案内された(明治三八年九月一〇日以後数日して)高野氏が、中野沼まで調査に行って発見したものかについては明らかでないが、おそらく高野氏が中野沼まで行って発見したものと筆者は推測している。この中野沼での産地を高野氏は、館林町より太田に至る県道を字雷といえる所より左折し中野村字鶉新田に至る道の左側と述べているが、この場所が現在どこであったか推測するのに、図の*1Aコースを通って鶉新田へ行ったと考えるのがよいかと思うので、その場合、現在沼を埋立てやや中央を横切る道ができているが、その西側にムジナモが産していたものと思う。この場所は、高野氏が、中野沼のムジナモを保護すべく努力中、中野村の大朏字一氏に語りかけていた中野沼のムジナモの産地とほぼ同じ場所であることが分かった。(ただし*2BコースをとったとすればBコースの東側の×地点にムジナモが産していたことになる。また中野沼の北よりにムジナモが産していたということは大朏字一氏の説によるものである。
 鶉新田に産していたムジナモの推移・・・・・・鶉新田に産していたムジナモの推移を年代順に述べる。この資料は、食虫植物研究会々員の方々が長い間にわたり調査された貴重な資料であり、筆者のために以前に恵送されたもので、初めて紹介するものである。小宮定志、斉藤常夫の各氏に感謝の意を表したい。(図は恵送された資料をもとに筆者が作成したものである)
鶉新田に産していたムジナモの推移
確認年月日 確認者とムジナモの推移
ムジナモ健在 昭和7年
  満水期
  • 食虫植物研究会々員 斎藤常夫氏外数名
  • 沼の内縁見当らず
  • 赤土手外側と東武鉄道小泉線土手との中間の田の用水。溜水に豊富に産し、東側用水には所々に養魚のスノコガあっても小泉線土手側まで、水路中の水生植物群落中に無数に健康に生育していた
昭和13年
     秋
  • 斎藤常夫氏
  • 沼の水位は二、三の水路残す程度。指定水域でのムジナモ保護は無理。
  • 田植え灌水や降雨などにより、マコモなどが周辺にないところは流出し、数に消長があった
昭和21年
    4月
  • 斎藤常夫氏
  • ムジナモ健在
  • 更に鶉新田西方道路東側の湿地の一部にも増殖
昭和24年
  9月18日
  • 食虫植物研究会々員 小宮定志氏、斉藤常夫氏など
  • 赤土手沿いの小溝と池周辺の田の中にびっしり繁茂。なかには干上がって土の表面にへばりついているムジナモもあった
  • 東側用水中の数は激減し、しかも不健全な個体を増し、田の用水中個体数も数を減じていた
昭和25年
  4月16日
  • 小宮定志氏
  • 赤土手沿いの小溝と池周辺の田の中
  • 指定地に貧弱なムジナモの冬芽あり
絶滅 昭和26年
  8月26日
  • 斎藤常夫氏 絶滅を確認 
同  年
  9月2日
  • 小宮定志、丸山、斎藤の各氏 ほか
  • 赤土手の左右にムジナモはなし
  • 誰かが一、二本貧弱なものを見出す
*1、*2:原文中の記載は丸囲み文字での表記となっているが、囲み文字は機種依存文字で文字化けの恐れがあるため、ここでは囲みを外してあります。

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