2 館林市・邑楽郡におけるムジナモ発見のいきさつ
 日本におけるムジナモの最初の発見者は、牧野富太郎氏で明治二三年五月一一日のことである。先生は、武蔵国小岩村伊予田にやなぎの実を採集に出かけ、江戸川の土提内の田間にあった用水池に眼を移したところ、見慣れぬ水草があったので、さっそく大学の植物学教室に持ち帰ったところ、これが世界で有名な食虫植物のムジナモであることが分かったのである。
 太田中学校教諭で植物の調査研究を熱心に続けられていた松村源蔵氏は、牧野先生がムジナモを発見して以来、黒田侃氏が、霞ヶ浦に、鈴木靖氏が、浪逆浦ナサカウラに、山野忠平氏が北浦の西岸においてそれぞれムジナモを発見採集したことを聞き、なお利根の上流においても発見したのではないかといううわさを聞いた。しかし松村氏は、利根の上流でムジナモを発見したという正確な知らせに接することはできなかった。そこで松村氏は、今のところムジナモの産地は、全く利根の本支流域にのみ限られているようであり、それ以外の産地は聞いていないが、邑楽郡の地は利根と渡良瀬の二つの川にはさまれ、湖沼に富んでいるので、これらの湖沼にも必ずムジナモが産するであろうと予想し、邑楽中学分校教諭高野貞助氏に面会(高野氏は、明治三四年に館林町に設立された太田中学邑楽分校に勤務されたので、明治三四年から明治三六年の間に面会され、松村氏と調査、研究の交流をされていたものと思う)の際、ムジナモを探してくれるよう依頼したこともあった。そうでなくとも、もとより熱心な高野氏は、城沼はもちろん、多々良沼、遠くは板倉沼までもしばしば採集に出かけ、探されたようであったが、未だにムジナモを見つけることはできなかった。

水中のムジナモ。
葉がハマグリの形のように開いている。

茎を中心にして8個の葉が輪生している。
 松村氏は、館林市や邑楽郡地方の植物を早くから調査研究されていた方である。明治三一年には城沼でタヌキモを採集し、採集された植物を詳しく観察し、毛筆によってたんねんに写生し、写生されたものは「植物分解実験図」の表現のもとに集められていたのである。
 また松村氏は、明治三七年九月に高野氏と共に舟を浮かべ、数多くの美しい水草を採集したが、多年探し求めていたムジナモの姿を見つけることはできなかった。この時、高野氏は、松村氏に城沼よりもかえって多々良沼の方に珍しい植物が豊富であると話されたので、松村氏は、日を改めて多々良沼へ採集に出かけようと思いつつ高野氏と別れた。
 明治三八年九月一〇日高野氏は、館林市の東方秋元氏の旧城趾と有名なつつじヶ岡との間にある城沼に水草の採集を試み、たまたま城沼の北岸にある水田の間にはさまれた一小渠中(小さなみぞ)に浮遊している数多くのムジナモを発見したのである。松村氏と城沼で水草採集を試みてからちょうど一年後である。
 その後一両日を経て、高野氏は、再び城沼の両岸でつつじヶ岡の北端にある瓢箪池に、ムジナモを探しに行ったところ、これまた池の満面が数多くのムジナモで満たされていたのである。
 高野氏は、城沼や瓢箪池においてムジナモを発見したことから、邑楽郡内に点在する他の池沼にも必ずムジナモが産するであろうと予想し、採集してきたムジナモをびんに浮かべて生徒に観察させた後、各方面からくる生徒達に、各自の家の付近、ならびに通学の道路に沿える池沼に、このようなムジナモが産していたら探して知らせてくれるように依頼したのである。
 ところが予期した通り、数日後多々良沼からは小島茂三郎(邑楽分校三年)、高澤誠三(邑楽分校一年)、近藤沼からは福井勝二(邑楽分校生)の生徒達がそれぞれ発見したと高野氏に知らせてきたのである。高野氏は、真偽を確かめるため、生徒の案内にて多々良沼及び近藤沼を視察した結果、何れも生徒達が知らせてきた場所には、ムジナモが豊富に産することが明らかになったのである。このような経過を経て邑楽郡に点在する沼にムジナモが産することが知られるようになったのである。
 この時のムジナモの確実なる産地として、高野氏は、次の四ヶ所をあげている。
名称 位置 摘要
瓢箪池 館林市の東南
つつじヶ岡の北端
城沼に沿ってつつじヶ岡の北端に瓢箪形の一小池あり。満面に浮遊す。
近藤沼 下三林村 沼の北岸水田の間を東西に走る巾一間位の小渠中に許多浮遊せり。
多々良沼 多々良、中野の二村にまたがる この沼の西端中野村字鶉新田に俗称赤土手といえる堤防ありてこの両側に産す。
中野沼 中野村 館林町より太田に至る県道を字雷といえる所より左折し中野村字鶉新田に至る道の左側。
 明治三八年九月下旬(小島茂三郎、高澤誠三の両生徒が、多々良沼からムジナモを採集して高野氏に知らせた後)に、松村氏は、太田中学に通学していた小島儀三郎氏(小島茂三郎の兄)から、弟の茂三郎が、九月下旬に多々良沼の一角にてムジナモを見出し、高野氏に示したところムジナモであることが分かり、高野氏は、早速同地を訪れ、数多くのムジナモを採集して大学等にも贈ったことを聞き、一〇月一日小雨の中を中野村に行き、小島兄弟の操縦で小舟を多々良沼に浮かべ、ムジナモを探し求めた。舟が沼のへりにさしかかると、茂三郎氏は、直ちにその一株を取って松村氏に示した。(茂三郎氏は、既に自ら採集して高野氏に示した時、ムジナモであることが分かっていたので、この松村氏の案内の時は、多々良沼のどこにムジナモが産しているのかははっきりしていた。)今までに見たことのなかった松村氏の眼には、水上に浮かぶムジナモの様子が、タヌキモ、クロモ、キクモ等と似ていて、ちょっと見分けもつかなかったが、(松村氏は少々近眼)後舟に棹してムジナモの数多く浮遊している中を通過するに従って、ようやく見慣れ、特にムジナモは水上に浮漂していること、その葉の密生していること、その色の鮮緑なることとは舟の快走している場合でも、容易に他の植物と見分けられるようになった。松村氏は、ムジナモは産地が少ない上貴重な植物なので他の植物と交換用にと多数採集した。ただおしいことに時期が遅いため一つも花果を見ることはできなかった。
 これまでに度々多々良沼に採集を試みた高野氏が、ムジナモを発見できなかった理由を松村氏は次のように述べている。
 「多々良沼のムジナモを産する場所が、全く西方に外出せる一角にして、水量少なく、アシやマコモの叢生している所なので、この方面まで探されなかったのではなかろうか。」
 この時案内した小島茂三郎氏の言によれば、「ムジナモがあるのはこの部分のみであって、この区域を中野沼といい、日向沼にはムジナモは見かけない(茂三郎氏の言う中野沼とは、多々良沼の西方が中野村字鶉新田に面する区域を俗に呼んでいたもので、日向村に面した広い区域は日向沼と呼んでいた)。」と、ただし別に独立した中野沼があって、ここにもムジナモを産すると聞いているが、雨天にして道悪く行かなかったということである。
 松村氏は、小島兄弟に案内されて、多々良沼でムジナモを採集したこの時の記事を、明治三九年一月二五日発行の博物学雑誌第六六号P21〜23に述べているが、この記事の中にムジナモを採集した地点を多々良沼の略図の上に示している。
 松村氏が小島兄弟に案内されて採集した一〇月一日にも、ムジナモを採集した場所は、茂三郎氏の言う中野沼(西方に出ている多々良沼の一部)の区域のみで、弁天付近にはムジナモを見かけなかったという。
 この時、松村氏は、邑楽分校の給仕をしていた春山氏が、近藤沼からムジナモを採集してきたことを述べている。
 次に日本におけるムジナモの発見を年代順にあげると、
明治二三年 五月一一日牧野富太郎氏が武蔵国小岩村伊予田の用水池にて発見。日本最初の発見。
年代不明 鈴木靖氏は、茨城県北浦浪逆浦に、黒田侃氏は、霞ヶ浦に、山野忠平氏は、北浦の西岸にてそれぞれ採集。
明治三二年 石津平太郎氏は、内浪逆浦で採集。
明治三四年 関根宗治氏は、埼玉県幸松村で採集。
明治三八年 高野貞助氏は、館林城沼北岸にて採集後、瓢箪池、近藤沼、多々良沼、中野沼と各地にて採集す。
のようになり、年代のはっきりしているものから数えると、高野貞助氏の発見は、日本で四番目の発見となり、このことは、牧野富太郎氏によって、明治三九年九月二〇日発行の植物学雑誌第二〇巻第二三六号二一二頁に「むじなも上野国館林付近の沼地に産す明治三八年九月一〇日高野貞助君の見出採集する所なり」と広く学会に報じられたのである。このようにして邑楽の沼地にムジナモが産することが中央にも広く知れわたり、人々の関心を集めることになっていった。
 発見当時の関係生存者の話・・・・・・明治三八年九月一〇日高野氏が城沼でムジナモを発見した後、多々良沼からムジナモを採集して高野氏に示し、郷土ムジナモ発見の協力者となった高澤誠三氏(発見当時邑楽分校一年生)に、筆者は幸いにも昭和三七年一二月二九日に面会することができ、発見当時の様子について詳しく聞くことができたので、ここに高澤氏との面会記を述べる。
 高澤氏の話によると、当時邑楽分校三年生小島茂三郎氏とは、家が近かったので、いつも一しょに通学していたという。また高澤氏宅の土地が多々良沼の近くにあったので、時々遊びながら沼などにもよって、それとなく水草類にも目をくばり、ムジナモ(当時名称不明)を見ては、「へんなものがあるなあ」と思っていたという。この時ムジナモは、俗称赤土手という堤防の両側、特に反対側の水田一帯に多かったという。この赤土手の両側にムジナモが多かったということは、高野氏が博物学雑誌六九号(明治三九年四月二五日発行)に発表した多々良沼のムジナモ分布場所と全く一致する。したがって高沢氏は、小島氏と共に高野先生からムジナモを探してくれるようにと依頼される以前から「へんな水草があるなあ」と、ムジナモとは知らなくも、ムジナモそのものを目にとめていたようである。このため高野先生から、珍しい水草(ムジナモ)を示されて、このような水草を見つけたら知らせてくれるようにと依頼された時、今までに見慣れていたので、そういうものならあるとすぐに頭に浮かんだそうである。このことが高野先生に早速知らせるきっかけになったようである。この時は、明治三八年(月日については五七年前のことではっきりしないが)だったと思う。(自分が邑楽分校一年生でその年にあたるので)そして高野先生に報告したということである。
 高野先生を案内したのは、小島茂三郎氏と共に二回あったと話され、最初の時は、沼の岸沿いにまた水田のうねづたいに採集して歩き、二回めの時は、沼の中を見る必要もあったためか、鶉新田向野側から舟を出して、向野部落の東側の岸から、弁天の西南辺にかけて見てまわったことを覚えているということであった。もちろんこの区域は、当時の多々良沼のほんの一部にすぎないが、でも沖へ出るほどムジナモは少なく、沼全体に分布していたか、それとも一部の区域のみにあったものかは確かめていなかったと述べられ、ただ水丈の深い所よりは浅い所に、沖よりは岸辺に、水のすんだところよりはややにごっている所に比較的多く分布していたことを記憶されていた。また当時高沢氏の見たところでは、沼の方よりは、むしろ堤防(俗称赤土手)をへだてた反対側の水田や当時水田の中に数多く散在していたうねの方にたくさんあったように記憶していると述べられた。これら高沢氏の述べた多々良周辺のムジナモ分布状態は、明治三八年のムジナモ分布を知るのによい手がかりとなり、またその前後のムジナモ分布の推移を考える時の貴重なものとしてここに記憶にとどめたい。

*高沢氏の示した明治三八年の多々良沼のムジナモ分布図。(ただし、この図は高沢氏の見かけた範囲内で記憶している場所であって、沼全体を調査した上の図ではない)
 この図に示されたムジナモ分布地点は、先に博物学雑誌第六九号に松村氏が、小島兄弟の案内で調査採集された際発表されたムジナモ分布地点と殆んど同じであり、続いて同誌第六九号に高野氏の発表された多々良沼のムジナモ分布地点と全く一致するものである。
 以上のことから明治三八年における多々良沼のムジナモ分布は、俗称赤土手(堤防)から、弁天付近までの中野村に面した区域と赤土手の反対側の水田に多産していたことが明らかである。
*高野氏の多々良沼ムジナモ調査には、このようにして小島、高澤の両氏が助力していたことをここにあわせて明記したい。
 また筆者のために種々ご教示くださった高澤誠三氏に心から感謝申し上げたい。
 大正八年・・・・・・内務省において史蹟名勝天然記念物保存に関する規定が設定されると、中野治房博士は、直ちに内務省の委託を受けてムジナモ調査のため二日間にわたって来館され、城沼における最初の発見地をはじめ、流失後の近藤沼及び多々良沼等を綿密に調査された。この時の調査内容を大正八年八月に「むじなも」と題して*1マル秘扱いで次のように述べている。
 城沼湖岸に於ける産地の状態・・・・・・明治三八年に高野貞助氏が初めて城沼の北岸善長寺下の一小用水路中において発見したが、その後全く絶滅したようで、わたしは、高野氏の案内で探したが発見することはできなかった。これは館林町の工業の発展に伴い、悪水を沼中に排出することが原因で、直接間接にムジナモを産していた用水路の水質を悪化してしまったためであるという。また高野氏は、花山公園下の瓢箪池にも発見したが、この池はその後花山公園運動場設置のため埋立ててしまい現在なくなってしまった。工場の排水による滅亡はいく分やむをえないとしても、瓢箪池の埋立て工事による絶滅は惜しむべきことである。
 近藤沼における状態・・・・・・近藤沼においてはその東北端の入江中に発見したものであるが、明治四三年の利根本流の洪水が沼の西方からおそい、それ以後全くムジナモを絶滅させたようで、今回の調査でもムジナモを見つけることはできない。これは洪水のため、一つは、ムジナモを遠く陸上に運び減水の後、これを乾燥死に至らしめたことが原因するが、一つは、洪水による水質の変化にもとづくものである。またムジナモの存在するような地は開墾地であって、著しく人工を加える必要があって、ムジナモを保存する上に大なる不便のあることは明らかである。
 多々良沼における状態・・・・・・多々良沼におけるムジナモは単に一地点にのみこれを産し、また他の用水路及び水田または水田間の水たまりの中にも発見する。わたしは、その最も保存に適当なる地点を選んで、これを保護区域に指定されることを望むものである。
 今少しく多々良沼水沢地におけるムジナモ存在の状態を述べると、他の産地におけると同じく挺水植物間に浮遊生活をしており、多々良沼においては主としてマコモの密生している間にあり、最もヨシ、キクモの如き挺水植物もムジナモと共存している。またヒツジグサ、ジュンサイの如き浮水植物多く、また食虫植物の一種なるタヌキモも多く、タヌキモは発生良好にして長さ三尺に及ぶものがある。水色は「ふおーれる標準色」十号に相当し黄緑色を呈し不潔である。水深は五尺内外の所が多い。
 多くは一個づつ散在しているのが普通だが、水田のように停滞している水中においては、五、六〜七、八個が集まって存在するのが普通である。常に水面に浮かび水中に沈存することはない。浮遊の状態は茎の長軸を水平に横たえ、葉の長軸は水面に直角の位置を取っているのが普通である。
 多々良沼のムジナモが単にその一部の水澤中にのみ産し、これと状態の似ている他の部分の水澤中に産しないことは、ちょっと不思議に感ずるが、渡良瀬川の洪水の際、常に高水が流れ込むので、無根のムジナモを現在の場所に押し流したものであろう。そうして割合に繁殖のおそいムジナモが短い期間の間に、一定の産地外に出ないのはこれがためであろう。
 以上述べたように、多々良沼における現在ムジナモの最も確実の産地を保存することは、学術上のためのみならず、この珍奇なる植物を保存することはムジナモを産する地方ならびに本邦の誇りとするに足ると深く考える。聞くところによると多々良沼においては、近来開墾の出願があるとのことであるが、わたしは、切にこの区域(多々良沼のムジナモを産する区域)の保存を望むものである(大正八年八月調査)
 以上のことから、大正八年中野治房博士調査の際は、城沼、瓢箪池、近藤沼等にもはやムジナモを見かけることはできなかった。しかし、多々良沼での良好に生育しているムジナモを調査した後、中野治房博士は、「インドの原産地にも劣らざる発育ぶりで、この植物を有するわが多々良沼は、もちろん実に学術会のために、日本の誇りとするにたる。」と口を極めて推賞したという。そして調査後直ちに多々良沼のムジナモは、「多々良沼ムジナモ産地」の名称のもとに、大正九年七月一七日国指定の天然記念物に指定されたのである。
 板倉の内沼と茂林寺南西の小溝にもムジナモが・・・・・・発見年代は不明であるが、板倉雷電神社の境内に添える内沼にもムジナモが産していたが、農家の肥料とする藻と共にかき上げられてしまい全滅してしまったことが、昭和十四年五月一五日発行の館林郷土叢書第四輯四〇ページに高野貞助氏によって述べられている。したがって板倉の内沼にも産していたことが明らかであり、更に同所にて関本平八氏(栃木県在住植物研究家)も採集している。
 また斉藤常夫氏(食虫植物研究会々員、東京在住)の報告によれば、昭和七年に茂林寺南西の小溝にてムジナモを確認しているということである。現在は絶滅。
*1:原文中は囲み文字での記載ですが、囲み文字は機種依存文字で文字化けの恐れがあるため囲み文字での記載は避けました。

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